亀岡 明智光秀ゆかりの谷性寺門前 ききょうの里亀岡市街から国道372号を北上

湯の花温泉を過ぎた辺りに在る

「谷性寺(こくしょうじ)」

 

明智の家紋でもある桔梗の花が咲くことから

通称「光秀寺」あるいは「桔梗寺」とも呼ばれる

 

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1582年の本能寺の変を前に

光秀は谷性寺にて

 

「一殺多生の降魔の剣を授け給え」

「いっせつたしょうのごうまのけんをうけたまえ」と誓願し

本懐を遂げます

 

「 多くの人を生かすために、

害をなす一人を殺す(一殺多生)ための

悪魔を押さえしずめることができる(降魔)剣を

与えてください」

と神や仏に誓いを立て

物事が成就するように願った

 

そんな谷性寺の門前には

例年6月下旬から7月下旬頃にかけて開園する

ききょう園が開園

 

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「ききょうの里」と呼ばれる

7000平方mの園には

5万株の桔梗が咲き誇ります

 

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ルドベキア、百合、アジサイなど初夏の花や

 

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紫や白色の桔梗をはじめ

ピンクの桔梗や沢ききょう

八重咲きの桔梗も観賞することが出来ます

 

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7月23日まで

入園料 500円(中学生以上)

 

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1582年6月

明智光秀は豊臣秀吉軍に山崎の戦いで敗れ

武者狩りをしていた民衆に襲われ落命

側近の溝尾庄兵衛が光秀の首を隠し

後に谷性寺に持ち帰ったとされる

 

1855年

光秀を慕う志士により光秀の首塚が

谷性寺に建てられた

 

 

問題

実は京都には、明智光秀の首塚が2か所在ります。一つは記事で紹介しました亀岡市の「谷性寺(こくしょうじ)」。さて、もう一つはどこ?

   

 

<解説>

 史実を考察すると

 

亀岡市の谷性寺は

幕末の志士が鎮魂のために建てた供養塔であったようです。

 

それに対し東山三条の白川筋は

その昔「粟田口(あわたぐち)」と呼ばれ

京の都に通じる街道の出入り口でした。

そしてこの場所に

光秀と斉藤利三の死骸が磔にされて曝されました。

(※斉藤利三は光秀の家臣)

 

日本史史料

「兼見卿記(かねみきょうき)」

「言経卿記ときつねきょうき)」

によれば

曝された同所に首塚が築かれた事が記されています。

 

以上の事から

光秀の首が埋葬された場所は

東山三条の白川筋のようです。

 

ただし、

粟田口で磔にされた光秀が本物という前提の話・・・

 

光秀は生き残って

家康の参謀天海上人になったという説もありますので・・・

 



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