JR山陰線「丹波口駅」の東のエリア
ここは、京都の花街(はなまち)のひとつ
「島原」があった場所
花街とは
芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称
※ 芸妓(げいぎ)とは、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性
※ 遊女(ゆうじょ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性
今日の花街は
売春防止法が施行された1957年以降
芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域を指している
・・・・・・
JR「丹波口駅」から
高架の線路下を南に向かって少し歩くと
島原住吉神社に着く
小さな神社
梅の木が一本
開花まではもう少し
この神社の角を曲がる道が
島原に入る道
少し進むと
昭和60年まで揚屋(あげや)として営業していた
「角屋(すみや)」につながる
※ 揚屋とは、料亭・宴会施設
花街「島原」は
単に遊宴だけではなく
和歌や俳諧などの文芸が盛んで
江戸時代中期には島原俳壇という
俳句を作る人々の社会が形成されるほどの活況を呈した
また、老若男女の出入りも自由で
島原で働く女性達も
手形があれば自由に外へ出ることができ
江戸の吉原と違い開放的な町であった
よく聞くはなしで
「島原の太夫や芸妓は体を売らなかった」
「島原は遊郭ではない」
という説があるが・・
戦前の内務省警保局の公式見解では
島原は遊郭であると判断されている
当時の芸妓は
貧しい家の娘が集まっており
多額の前借金を背負って芸者屋に年季奉公をしていた
年季奉公契約書には
「抱え主からの売春指示には従い、借金返済のため努力する」
という条項があった
京都の六花街の一つに数えられた「島原」であったが
立地条件の悪さや格式の高さが原因で衰退
花街としての営業は昭和52年(1977)で途切れる
今回「角谷」を訪れた理由は
「京の冬の旅13年ぶりの公開」と称し
新選組も通った旧花街の揚屋建築を
3/14(火)まで公開されているため
「臥龍松(がりょうしょう)の庭」
「松の間」「台所」などの一階部分が公開との事
楽しみにやって来ました
揚屋建築を今に伝える唯一の遺構「角屋」
料亭と同じような用途で使用され
太夫や芸舞妓を派遣してもらい
歌舞と食事を楽しんで頂いていた
さっそく中に入ってみると
玄関を入ってすぐに「台所」
滑車を使い
井戸から水をくみ上げ
釜戸で調理
昔の生活が目に浮かんできます
奥へと進むと
中庭が現われます
小さな庭ですが
解放感を与え
見る者に落ち着きを与えます
さらに奥に進みます
廊下の奥には
「臥龍松(がりょうしょう)の庭」
そして
この庭を眺める事が出来る
「松の間」
文久3年(1863年)
この松の間で新撰組の初代筆頭局長
芹沢鴨(せりざわ かも)が大宴会を行う
その日
壬生の八木邸に帰宅後
暗殺される
芹沢の最後の晩餐
縁側からこの素晴らしい景色を眺めたのでしょうか
感慨深くなります
営業当時の壁紙や照明などを再現された「角谷」で
タイムトリップ
楽しめました
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