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問題001
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愛宕念仏寺の本堂内の本尊「千手観音」は、( どんな動作で? )念仏を唱える姿をしており、鎌倉時代の肖像彫刻(※)の逸品と言われている。
愛宕念仏寺の本堂は度々移建され
補修を加えられてきたが
鎌倉時代中期の和様建築の代表的な遺構で
国の重要文化財に指定されている。
※ 鎌倉時代の肖像彫刻とは、現実の人間描写に焦点が絞られ、外面的特徴が執拗(しつよう)に追求された。
投稿記事 : 愛宕念仏寺 羅漢像と紅葉
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記事中の「ひがん花の里」がある亀岡市曽我部町(旧:丹波国桑田郡穴太村)出身の江戸時代中期~後期の絵師で、「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている人物は誰か?
円山 応挙は
近現代の京都画壇にまでその系統が続く
「円山派」の祖であり
写生を重視した親しみやすい画風が特色。
※ 京都画壇は、一般的に明治以後の京都美術界のこととされている。
※ 画壇(がだん)とは画家の社会
投稿記事 : 真っ赤な花が咲き広がる「ひがん花の里」
尾形光琳(おがた こうりん)の代表作のひとつである「紅白梅図屏風」は、( 何処? )の東方にあった屋敷の2階の画室で描かれたと推定されている。
光琳は5年ほど江戸に滞在した後
宝永6年(1709年)に京都へ戻っている。
正徳元年(1711年)には
京都の新町通り二条下ル(二条城の東方)に新居を構えた
「紅白梅図屏風」は光琳晩年の作とされ
この屋敷の2階の画室で描かれたと推定される。
投稿記事 : 下鴨神社 光琳の梅
「賽(さい)の河原」の物語をつくった空也上人(くうやしょうにん)の彫像は、( 何寺? )が所蔵する立像が最も有名で、国指定の重要文化財である。
※ 仏師運慶(うんけい)の四男である康勝(こうしょう)の作
首から鉦(かね)を下げ
鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち
わらじ履きで歩く姿を表している。
6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ
開いた口元から吐き出すように取り付けられている
この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し
念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。
後世に作られた空也の彫像・絵画は
全てこのような造形・図像をとる。
投稿記事 : 駅の呼び名 と 高山寺(西院)
知恩院前に住居を構えていた( 誰? )は、江戸時代の元禄年間(1688年~1703年)を中心に京都で活躍した扇絵師で、着物の友禅模様という名称の基になった扇絵や小袖の雛形(ひながた)を描いた。
宮崎 友禅斎は
来歴不明で出家であったことぐらいしか解っていない
扇面に描いた絵が「友禅扇」と言われ流行したことから
着物(小袖)のひながた(雛形)を描く
友禅模様は、男女、貴賎を問わず評判になり
後に友禅という名は
着物の模様や染織技法も指す言葉になった。
投稿記事 : 知恩院 フライングの紅葉
東郷青児が生まれた1897年は、京都国立博物館が開館した年であり、本博物館では( 何時代? )から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。
平常展示のほかに
特別展が1年に2~4回行われている。
投稿記事 : 喫茶ソワレ と 東郷青児
国宝に指定されている東寺の不動明王坐像は、金箔をはりあわせて厚みをもたせ、それを細かく切り、仏像や仏画などにはりつけて装飾する伝統的な技法( ? )が施されている。
截金は
大陸から6世紀頃に伝わって来た。
飛鳥時代の
法隆寺金堂の四天王像が最古といわれている。
投稿記事 : 東寺 五重の塔と蓮
二条城二の丸御殿に残る豪華絢爛な障壁画は( 何派? )の絵師によって描かれた。
狩野派は日本絵画史上最大の画派であり
室町時代中期から江戸時代末期までの
約400年にわたり活動
室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし
その子孫は
織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え
その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め
あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として
日本美術界に多大な影響を及ぼした。
投稿記事 : 二条城の南側 キムチ専門店「キムチのミズノ」
野々村 仁清(ののむら にんせい)、尾形 乾山(おがた けんざん)とならんで、「京焼三陶工」といわれているのは誰か。
青木木米(1767〜1833)は、
頴川門下のなかでも秀才で
高い教養をもった文人でもあった
木米の陶磁器は
文人としての素養の側面が大きいといわれている。
投稿記事 : 信楽 宗陶苑 陶芸体験②
美山町出身で、江戸時代前期の陶工で京焼の祖といわれているの誰か。
京焼色絵陶器を完成させたと言われている
粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたのち京都に戻り
正保年間(1644年 – 1648年)頃
仁和寺の門前に御室を開いた。
投稿記事 : 美山かやぶきの里 雪灯廊
妙心寺のの塔頭「退蔵院」にある如拙(じょせつ)が描いた国宝の水墨画を何というか。
室町幕府将軍足利義持の命令により
ひょうたんでナマズを押さえるという
禅の公案を描いたもの。
1415年(応永22年)以前の作で
国宝に指定されている。
投稿記事 : 妙心寺 明智風呂
江戸時代の芸術家である( だれ? )に元和元年(1615年)に徳川家康が鷹峯の地を与えた。光悦の死後に屋敷は寺となり、光悦寺となる。
「本阿弥行状記」によれば
光悦寺のある鷹峯は昔
「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったが
光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み
芸術の集落となった。
投稿記事 : 引き込まれてしまう参道 光悦寺
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