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問題153

京都の鬼門(北東)を守護する( 何寺? )とともに、石清水八幡宮は裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として 皇室や朝廷から崇敬されてきた。

   

 

<解説>

鬼門とは、

北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のこと。

陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、

万事に忌むべき方角としている。

 

鬼門とは反対の、

南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、

この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。

 

陰陽道においては

北と西は陰、

東と南は陽とされ、

北東と南西は陰陽の境になるので、

不安定になると説明される。

 

投稿記事 : 石清水八幡宮 8メートルのジャンボ御神矢

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問題152

相国寺の本尊は釈迦如来、開基(創立者)は( だれ? )、開山(初代住職)は夢窓疎石である。

   

 

<解説>

 約10年の歳月を費やして

明徳3年(1392)に完成した。

 

禅宗行政の中心的存在であったが失火で炎上

5年後に七層の宝塔を建立したが

落雷で焼失するなど衰退

再建を繰り返した。

 

法堂(重文)は豊臣秀頼の寄進。

天井に狩野光信筆の蟠龍図が描かれ

‘鳴き龍’で知られる。

 

寺宝は無学祖元墨蹟(国宝)をはじめ文化財は多く

1984年(昭和59)

美術品を一堂に集めた承天閣美術館ができた。

 

投稿記事 : 相国寺の雪景色

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問題151

「三十三間堂」は1164(長寛2)年、後白河上皇が( 誰? )に命じて、上皇の離宮である法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画に建立された。

   

 

<解説>

 建長元年(1249年)の火災で焼失したが

1266(文永3)年に

現在の本堂が再建された。

 

本堂の正式名称は「蓮華王院(れんげおういん)」

完成当時は朱色で

五重塔や不動堂などもあった

スケールが大きく豪華な建築物として

神々しいまでの美しさであった。

 

投稿記事 : 三十三間堂 雪の中の「通し矢」

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問題150

金閣、銀閣と並んで「京都三大閣(京の三閣)」と言われるのは?

   

 

<解説>

飛雲閣は

国宝に指定された歴史遺産である。

 

三大閣に共通するのは

庭、とくに池と建物が調和して

美しい落ち着いた風景を構成している点である。

 

ちなみに

大徳寺の塔頭である

芳春院の呑湖閣を加えると

京の四閣と言われる。

 

投稿記事 : 銀閣寺 晩秋の紅葉

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問題149

大徳寺は多くの名僧を輩出し、( 何文化? )とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。

   

 

<解説>

室町時代以降

一休宗純をはじめとする名僧を輩出。

 

侘び茶を創始した村田珠光などの

東山文化を担う者たちが

一休に参禅して以来

大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く

「武野紹鴎」「千利休」「小堀遠州」をはじめ

多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。

 

投稿記事 : 大徳寺 高桐院 雨の中の紅葉鑑賞

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問題148

雨宝院は( 誰? )が開基のお寺で、別名「西陣の聖天さん」とも呼ばれている。

※ 開基とは、仏寺を創立すること

   

 

<解説>

雨宝院は古義真言宗の寺で

本堂に安置されている

本尊「聖天(大聖歓喜天)像」は

821年、弘法大師が嵯峨天皇の

御悩平癒を祈願して安置されたものとされ

それがこの寺の始まりと伝えられている。

 

投稿記事 : 雨宝院 歓喜桜と御衣黄桜

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問題147

立本寺には、筒井順慶や石田三成に仕えた、鬼と呼ばれた武将( 誰の? )の墓がある。

   

 

<解説>

島左近は

石田三成に全幅の信頼を受けた

戦国時代の武将で

「三成に過ぎたるものが二つあり。

島の左近と佐和山の城。」

と謳われた程の人物であり

「鬼左近」などと呼ばれていた。

 

関ヶ原の合戦では

討ち死にしたと言われているが

その亡骸は見つかっておらず

逃げ延びて

「立本寺にて余生を過ごした」という説もある。

投稿記事 : 立本寺の枝垂れ桜

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問題146

六角堂は、正式名を「紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)」といい、( 誰? )が創建したと伝わる天台宗の寺院。

   

 

<解説>

お堂が六角形のことから

六角堂と呼ばれている。

 

西国三十三所巡礼の第18番札所で

いけばな発祥の地としても有名。

 

投稿記事 : 六角堂の御幸(みゆき)桜

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問題145

本満寺の創建は、応永17年(西暦1410)で( 何寺? )と称していた。

   

 

<解説>

創建時は今出川新町の

上京区役所の北西部付近にあり

今もこの辺りは「元本願寺町」の町名で

名残をとどめている。

 

天文5年(1536)の天門法華の乱で堂宇が焼失

その後、近衛尚通(戦国時代の公家)が

現在の地に再建した。

 

また、徳川吉宗の病気平癒を祈願した由縁で

徳川家の祈願所ともなっている。

 

投稿記事 : 本満寺の枝垂れ桜

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問題144

平野神社は平安遷都の794年に( 誰? )によって奈良平城京の田村後宮の御殿から現在の地に移された

   

 

<解説>

1200年以上の歴史を持つ平野神社

平安時代中期には

伊勢神宮、上賀茂神社、下鴨神社、

石清水八幡宮、松尾大社に次ぐ

名社として位置づけられていた。

 

歴代の朝廷の崇敬も深く

源氏、平氏の氏神としても崇められている。

 

投稿記事 : 平野神社 魁桜

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問題143

清凉寺には、紫式部の「源氏物語」の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる( 誰の? )の墓が残されている

   

 

<解説>

源 融は、嵯峨天皇の十二男

侍従、右衛門督、大納言などを歴任

極位極官は従一位左大臣に至り

また六条河原院を造営したことから

河原左大臣と呼ばれた。

 

投稿記事 : 清凉寺の河津桜

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問題142

菅原院天満宮神社は、太宰府天満宮への遺蹟伝承地を結ぶ( ? )の第1番になっている。

   

 

<解説>

「菅公聖蹟二十五拝」とは

京都から太宰府(九州)までの

道真に由緒深い25社を順拝する風習

 

「菅公聖蹟二十五拝」とは別に

京都市内で25社を選んだものが

「洛陽天満宮二十五社」

これに関しては時代で少し内容が異なる。

 

投稿記事 : 菅原院天満宮神社 菅公産湯の井戸

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問題141

豊臣秀吉は、( ? )の際に御香宮神社を城内に移し、鬼門の守護神とした。

   

 

<解説>

後に徳川家康によって

元の位置に戻され本殿が造営された

表門は伏見城の大手門を

移築したものとされている。

 

投稿記事 : 御香宮神社 御香水

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問題140

上賀茂神社の境内は自然豊かな敷地で、一の鳥居から二の鳥居までは、競馬(くらべうま)などの( ? )の神事が行われる芝生となっている。

   

 

<解説>

社殿は本殿など2棟が国宝

34棟が重要文化財

境内は史跡に指定されている。

 

投稿記事 : 古田敦也や笑福亭鶴瓶が足しげく通っていた「今井食堂」のさば煮定食

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問題139

院政期(平安末期)の1161年(永暦2年)から、法住寺を中心とした地域は( 誰? )の宮廷(法住寺殿)がいとなまれた。

   

 

<解説>

法住寺殿が

木曾義仲(きそ よしなか)によって焼き討ちされ

数年を経て後白河上皇も崩御すると

法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として

江戸時代末期まで存続。

明治期に

御陵と寺が分離され現在にいたる。

 

投稿記事 : 法住寺 吊るし雛

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問題138

地蔵院(椿寺)の書院の前庭にはかつて、有名な( 何椿 )があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約百年の二世椿が花を咲かせている。

   

 

<解説>

散り椿は

秀吉の朝鮮侵略の文禄の役(ぶんろくのえき)の際に

加藤清正が朝鮮蔚山城(うるざんじょう)から

持ち帰って秀吉に献上し

さらに北野大茶会のときに当寺に献木されたもの。

 

投稿記事 : 地蔵院(椿寺) 見頃の散り椿

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問題137

今の智積院の在る場所は、もともと祥雲寺(しょううんじ)の土地であったが、この土地を( 誰が? )が紀州にあった智積院の住職に寄進し、現在の智積院となった。

   

 

<解説>

紀州の根来山(ねごろやま)には

「根来衆」とよばれる僧衆1万余の軍事集団が

秀吉と対立していた。

智積院は

根来山にある根来寺の塔頭であった。

天正13年(1585年)秀吉による根来攻めで

全山炎上

智積院の住職の玄宥(げんゆう)は

根来攻めの前に高野山に逃れ

智積院の再興を志す

 

その後、秀吉が没し

徳川家康は日頃から帰依していた智積院へ

秀吉の息子「鶴松」を菩提の為に建てられた

「祥雲寺」の土地を寄進

現在の智積院となる。

 

投稿記事 : 智積院 源平咲き分け梅

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問題136

西山の麓に在る大原野神社へ参詣する桓武天皇の様子は、「源氏物語」や( 何の随筆? )に描かれている。

   

 

<解説>

大原野神社近くの一帯は

良質なタケノコの産地として知られ

花卉(かき:切り花と花苗)を栽培する

ビニールハウスも見られる。

 

投稿記事 : 西山の麓に咲く野梅

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問題135

東北院は( 何時代? )の中ごろ、藤原道長が営んだ法成寺(ほうじょうじ)の東北に、道長の長女である藤原彰子(ふじわらのしょうし)によって長元3年(1030)に建造された。

   

 

<解説>

康平元年(1058)2月

法成寺が焼失した際に東北院も類焼

同4年7月に再建

 

江戸時代の元禄5年(1692)12月に火災にあい

当時、上京区の寺町通今出川下ルにあった

真如堂や極楽寺・迎稱寺ともに

翌年左京区浄土寺真如町(現在地)に移転した。

 

和泉式部ゆかりの“軒端の梅”の後継といわれる

白梅も移され

現在、弁財天女を祀る本堂の脇にある。

 

投稿記事 : 東北院 軒端の梅

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問題134

興正寺は浄土真宗であるが、浄土真宗は「真宗四派」に分かれており、その四派とは「本願寺派(西本願寺)」「真宗大谷派(東本願寺)」「真宗興正派」もう一つは何か?

   

 

<解説> 

興正寺は浄土真宗・親鸞上人の教えに導く寺院

浄土真宗は「真宗四派」に分かれ、それぞれの本山がある。

 

四派とは

「本願寺派(西本願寺)」

「真宗大谷派(東本願寺)」

「真宗佛光寺派」

「真宗興正派」

興正寺は真宗興正派の本山である。

 

投稿記事 : 興正寺の紅梅・白梅

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問題133

安産・子授けのご利益がある梅宮大社。嵯峨天皇は子宝に恵まれず、皇后である檀林皇后(だんりんこうごう)が梅宮大社に子授け祈願に訪れたところ、見事ご懐妊され、後の( 何天皇? )をご出産された。

   

 

<解説> 

天皇家からも篤(あつ)く信仰されている

梅宮大社は

世代相続の男児に恵まれたいと

参拝に訪れる人が多かったが

今では男女を問わず子授け・安産に

ご利益のある神社として広く知られている。

 

投稿記事 : 梅宮大社 雨上がりの梅

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問題132

伏見稲荷大社のお山の参道全体に並んで立っている鳥居の数は約何基か?

   

 

<解説>

願い事が「通る」

或いは、願い事が「通った」御礼の意味から

鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がり

現在は約1万基の鳥居が

お山の参道全体に並んで立っている。

 

投稿記事 : 伏見稲荷大社 初午大祭

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問題131

記事中のお店近くには、JRと京阪の「黄檗(おうばく)駅」がありますが、「黄檗」の由来は近くに黄檗宗大本山の寺院があるからですが、その寺院は何か?

   

 

<解説> 

萬福寺は

隠元隆琦(いんげん りゅうき)が開山

本尊は釈迦如来である。

 

日本の近世以前の仏教各派の中では

最も遅れて開宗した。

 

黄檗宗の中心寺院で

中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた

建物や仏像の様式

儀式作法から精進料理に至るまで中国風で

日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。

 

投稿記事 : 今や全国区のパン屋さん たま木亭

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問題130

八坂庚申堂(やさかこうしんどう)は、飛鳥時代にこの地の豪族であった( 何氏? )の守り本尊・青面金剛(しょうめんこんごう)を安置している。

   

 

<解説> 

八坂庚申堂は

大阪の四天王寺庚申堂

東京の入谷庚申堂(現在は廃寺)とともに

日本三庚申のひとつといわれている。

 

投稿記事 : 八坂庚申堂 「見ざる、言わざる、聞かざる」

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問題129

日本銀行券として発行されていた( 何円紙幣? )は、1890年から1945年まで発行されたものは一貫して和気清麻呂と護王神社が描かれた。

   

 

<解説> 

1890年に発行されたものは表面の枠模様の中に

8頭の小さな猪が描かれ

さらに1899年に発行されたものは

裏面に大きな猪が1頭描かれた

10円紙幣はその後1915年発行のものから

猪が描かれなくなったが

その後も含めて和気清麻呂の

肖像画が描かれた10円紙幣は

長らく「いのしし」と俗称された。

 

投稿記事 : 護王神社 申年の絵馬

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問題128

( ? )は、菅原道真を祭神とする天満宮において、神使(祭神の使者)とされている。

   

 

<解説>

理由については

「道真の出生年は丑年である」

「亡くなったのが丑の月の丑の日である」

「道真は牛に乗り大宰府へ下った」

「牛が刺客から道真を守った」

「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」

など多くの伝承がある。

 

投稿記事 : 北野天満宮 梅に掛かる雪

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問題127

上賀茂神社境内に在る摂社である片山御子神社は「縁結びの神様」としても古来から有名で、( 誰? )が何度もお参りしたことでも知られている

   

 

<解説>

紫式部は

片岡社にちなんでこんな和歌を詠んでいる

 

ほととぎす 声まつほどは 片岡の

もりのしづくに 立ちやぬれまし

(新古今和歌集:第三巻 夏歌)

 

「和歌の意味」

ホトトギス(将来の結婚相手の声)を待ちわびる間

片岡社の木の下に立ち

朝露に濡れていましょう

 

投稿記事 : 上賀茂神社 武射神事

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問題126

釘抜地蔵(くぎぬきじぞう:正式名「石像寺(しゃくぞうじ)」)は、 空海(弘法大師)により弘仁10年(819年)創建され当初は真言宗寺院であったが、鎌倉時代に俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)による再興を機に( 何宗? )に改宗された。

※ 俊乗坊重源は、浄土宗の開祖・法然に学び、四国・熊野など各地で修行をした。

   

 

<解説>

その後衰微(すいび:衰えて勢いが弱る)したものの

慶長19年(1614年)にも

西蓮社厳誉上人により

再興された。

 

投稿記事 : 釘抜地蔵 八寸釘と釘抜きの絵馬

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問題125

下鴨神社の祭神である「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)」は( ? )に化身して神武天皇を導いたとされ、賀茂氏の始祖といわれる。

   

 

<解説>

八咫烏は

日本神話において

神武東征(じんむとうせい)の際

神武天皇のもとに遣わされ

熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス

一般的に三本足のカラスとして知られ

古くよりその姿絵が伝わっている。

 

現代では

八咫烏は主に日本サッカー協会の

シンボルマークおよび日本代表エンブレムの

意匠として用いられている事でも知られている。

 

※ 神武東征とは、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)で初代天皇とされる伝説上の人物である神武天皇(じんむてんのう)が、天下を治めるべき地を求めて、日向(ひゅうが:宮崎)から大和(やまと:奈良)に東征(とうせい)し、橿原(かしはら)に宮を定めて即位したというもの

 

投稿記事 : 下鴨神社 成人祭

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問題124

京都ゑびす神社は、「西宮神社」「今宮戎神社」と並んで日本三大ゑびすと称され、( ? )の名で親しまれています。

   

 

<解説>

京都ゑびす神社の起源は

約800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に

禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり

その鎮守として最初に建てられた。

 

投稿記事 : 京都ゑびす神社 十日ゑびす大祭

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問題123

記事中のお店の名前「詣」、辞書で調べると「社寺にもうでる(参詣)」という意味がある。初詣のこの時期、近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)京都の神社は何処か?

   

 

<解説>

伏見稲荷大社は

近年は外国人観光客からも観光地として人気があり

トリップアドバイザーによる2013年の

「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2位を

2014年の調査では

広島平和記念資料館を抜いて1位を獲得

2015年も連続で1位となっている。

 

要因として

駅のごく近くに赤い鳥居が続く風景が日本的な上

拝観料不要で閉門時間が無いことも理由であり

稲荷山のお山巡りで欧米人が好む

ウォーキングができることも高評価の理由とされる。

 

投稿記事 : 「飯処 詣」の2トップ商品 カレーパンとクリームパン

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問題122

日吉神社は、滋賀県大津市坂本にある( 何処から? )からの勧請(かんじょう)で創建された神社である。

※  勧請とは、神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること

   

 

<解説>

日吉大社より

日吉山王 国常立尊(くにのとこたちのみこと)の

二神を勧請して祀っている。

 

厄魔を払い去る御神徳で

古くから信仰の対象とされている。

 

投稿記事 : 日吉神社のまさるくん

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問題121

沖縄との関係が深い寺として知られる檀王法林寺(だんのうほうりんじ)は、琉球王国時代に渡来した( だれ? )が開山した。

   

 

<解説>

檀王法林寺では

琉球王国の尚寧王(しょうねいおう)から贈られた

工芸品も保存されている。

 

併設する保育園ではエイサーを

教育に取り入れるなど

沖縄との関係が深い寺として知られている。

 

※ エイサーは、沖縄県と鹿児島県奄美群島でお盆の時期に踊られる伝統芸能。

 

投稿記事 : 海と空 おきなわ食堂 ゴーヤ入りカキフライカレー

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問題120

新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、豊臣秀吉を祀った( ? )と呼ばれている。江戸時代には、秀吉を崇拝する事は禁止されていたが、「隠れキリシタン」のように、密かに秀吉を信仰する人々が集ったのが新日吉神宮だった。

   

 

<解説>

境内にある「樹下社(このもとのやしろ)」は

「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」とも呼ばれ

秀吉信仰をする人々が訪れていた。

 

理由は

かつて豊国廟社の跡地に新日吉神宮が建っていたこと

豊臣秀吉の旧名・木下藤吉郎の「木下」と

樹下社の「樹下」が同じ「音」であること

 

そして

新日吉神宮の神使いが「猿」であり

「サル」と呼ばれていた秀吉

 

接点は多くある。

 

投稿記事 : 新日吉神宮の「狛猿」

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問題119

城南宮は明治10年(1876年)、式内社( ? )に比定され、社名を( ? )に改称した。

※ 式内社とは、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)ともいい、「延喜式」の神名帳 (じんみょうちょう) に記載されている神社をさす。

※ 延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で三代格式の一つである。

   

 

<解説>

昭和43年(1968年)には「城南宮」に復し

「真幡寸神社」はその境内摂社として

境内に新たに社殿を設けて奉祀されることになった。

 

投稿記事 : 城南宮 初詣

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問題118

幕末期の西本願寺は、京都を守る剣客集団( ? )の本拠地ともなっている。

   

 

<解説>

新選組は

元治元年(1864年)の池田屋事件で

高く評価され

幕府からの支援も多くなった。

 

新隊士も続々と増え

200人を超えるほどとなり

慶応元年(1865年)3月に

屯所を西本願寺に移転した。

 

投稿記事 : 西本願寺に掲げてある二種類の旗

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問題117

大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、( 何宗? )大徳寺派大本山である。

   

 

<解説>

臨済宗は

中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで

日本においては

禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つである

 

中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 – 6C前半)から

数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の

祖・曹渓山宝林寺の慧能(638年 – 713年)の弟子の1人である

南岳懐譲(677年 – 744年)から

馬祖道一(709 – 788年、洪州宗)

百丈懐海(749 – 814年)

黄檗希運(? – 850年)と続く法系を嗣いだ

唐の臨済義玄(? – 867年)によって創宗された。

 

投稿記事 : 映画でも出演した「小川大徳寺京豆腐」の吉野豆腐

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問題116

長岡京市の光明寺は、嘉禄の法難(かろくのほうなん)の際、ここで法然の遺骸を荼毘に付し(火葬)、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられ、( 何天皇? )はそのことを聞いて、光明寺の勅額(門・鳥居などの高い位置に掲出される額)をあたえた。

   

 

<解説>

嘉禄の法難は

法然死後に

天台宗の延暦寺衆徒が

浄土宗と専修念仏を弾圧した事件。

 

投稿記事 : 2015 光明寺 雨上がりの紅葉

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問題115

北野天満宮は、 明治時代に政府が定めた近代社格制度で官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)と評価され、1871年(明治4年)に( ? )と改名する。

※ 近代社格制度では、上の位から「官幣大社」「官幣中社」「官幣小社」と続く

   

 

<解説>

「宮」を名乗るためには

祭神が基本的には皇族であり

かつ勅許が必要であったため

「北野神社」と改名した。

 

1946年に神社の国家管理と社格制度は廃止され

旧称の北野天満宮の呼称が復活した。

 

※ 勅許(ちょっきょ)=天皇の許可

 

投稿記事 : 北野天満宮の大福梅の授与

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問題114

 地蔵院は、1368年(応安元年)、室町幕府管領を務めた( 誰? )によって創建された

   

 

<解説>

細川 頼之は

南北朝時代から室町時代初期にかけての

武将、政治家。

 

足利氏の一門である細川氏の武将として

四国地方における南朝方と戦う

管領への就任で幕政を指導し

幼少の足利義満を補佐し

南朝との和睦などを行う。

 

投稿記事 : 地蔵院 晩秋の紅葉

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問題113

 洛西の小塩山(おしおやま)の中腹にある金蔵寺(こんぞうじ)は、平安時代に( ? )といわれた。

   

 

<解説>

金蔵寺は

「京三岩倉」のひとつとして

階級に関係なく多くの人に広く崇敬を集めていた。

 

「今昔物語」にも

「京の西山に西岩蔵(にしいわくら)という山寺あり」

として登場する。

 

投稿記事 : 金蔵寺 雨上がりの紅葉

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問題112

越後国に流罪となった浄土真宗の宗祖とされる( 誰? )が、赦免の翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り京都山科の地に草庵を創建した事が佛光寺草創と伝えられている。

※ 赦免=罪をゆるすこと

   

 

<解説>

その後、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ

阿弥陀仏の本願をひろめるため

関東行化に旅立ったとされる。

 

しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには

寺伝以外の根拠に乏しく

史実としては、配流先の越後より

直接関東方面へ向ったとする説が有力である。

 

投稿記事 : 佛光寺 区民誇りの木に指定のイチョウ

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問題111

宝厳院(ほうごんいん)は、寛正2年(1461年)に創建したが、( ? )に巻き込まれて焼失し、天正年間(1573年 – 1591年)に再興された。

   

 

<解説>

創建当時は現在の京都市上京区にあったが

明治時代 河川工事のため寺域が買い上げられ

天龍寺塔頭の弘源寺内に移転した。

 

平成14年(2002年)

天龍寺方丈南側の現在地を購入して移転

再興した。

 

投稿記事 : 宝厳院 夜の紅葉特別公開

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問題110

西本願寺は天正19年(1591年)、( 誰に? )により寺地の寄進を受け、大阪天満から現在の堀川六条に寺基を移転した。

   

 

<解説>

慶長7年(1602年)

後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から

豊臣秀吉の命により

本願寺内北方に隠居させられていた教如(11代顕如の長男)へ

烏丸七条に寺領が寄進され

本願寺が東西に分立する。

 

投稿記事 : 西本願寺の大銀杏

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問題109

記事中の「大宮キャンパス」の隣に在る「西本願寺」の境内には( 何文化? )を代表する建造物や庭園が数多く残されており、平成6年(1994年)に国の史跡に指定され、同年12月にユネスコの文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている。

   

 

<解説>

建物の配置と構造は

東向きを原則とする真宗建築の典型で

親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が

北隣の本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られている。

 

投稿記事 : 龍谷大学 大宮キャンパス 映画の舞台

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問題108

京都御苑の石薬師御門がある場所には、もともと( ? )が在った

   

 

<解説>

真如堂には

石薬師が安置されている石薬師堂があり

石薬師御門は真如堂にまつわる名前を今に伝えている。

 

真如堂は元禄時代に神楽岡にある現在地に移転したが

寺町今出川の南には今も

「真如堂前町」「真如堂突抜町」の町名が残っている。

 

投稿記事 : 京都御苑 グラデーション紅葉

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問題107

記事中のお店前の佐井通は、四条通との交差点付近に春日神社があるため、春日通(かすがどおり)とも呼ばれる。その春日神社は平安初期、( 何天皇 )が西院に奈良春日大社よりご分霊を迎えておまつりされたことが起こりである。

   

 

<解説>

春日神社は

神前の霊石で皇女の天然痘が治り

病気平癒の神として崇められている。

 

投稿記事 : 京都塩元帥 完全自家製麺「天然塩ラーメン」

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問題106

記事中の神峯山寺(かぶさんじ)は、日本で最初に毘沙門天(びしゃもんてん)が安置された霊場といわれているが、庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の京都の( 何寺? )である。

   

 

<解説>

鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ

交通の要衝でもあり古くから市が栄え

自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である

財福の神という面が強まっていった。

 

投稿記事 : 西山連山最西端の紅葉 神峯山寺

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問題105

記事中の銀杏並木近くの東本願寺は、江戸時代に4度の火災に遭っており、その火災の多さから( ? )と揶揄されていた。

   

 

<解説>

東本願寺が火元となったのは

文政6年(1823年)11月15日の火災のみである

現存建造物の多くは

どんどん焼け(禁門の変にともない発生した火災)の後

明治期の再建だが

建築・障壁画等は当時の技術の粋を集める。

 

投稿記事 : 烏丸通東本願寺前 銀杏並木

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問題104

神蔵寺(じんぞうじ)は、延暦9年(790)伝教大師最澄(さいちょう)が( 何寺? )を建立した頃、自らこの地を尋ね、この寺を建立したのが始まりといわれている

   

 

<解説>

本尊の薬師如来坐像は

藤原末期の様子を伝え

昭和25年には国の重要文化財(旧国宝)に指定された。

 

投稿記事 : 神蔵寺 不作の紅葉

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問題103

鍬山神社(くわやまじんじゃ)境内の垣根内には本殿に並んで( ? )が同規模・同形式で建てられており、両宮とも社殿は京都府登録文化財に登録されている。

   

 

<解説>

鍬山宮の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)

大己貴命は大国主命に同じで出雲神

創建以来祀られる主神とされる。

 

八幡宮の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)

誉田別尊は応神天皇に同じで八幡神

永万元年(1165年)以降祀られる客神とされる。

 

神紋は鍬山宮が大国主命に因み兎で

八幡宮は通例通り鳩である。

 

投稿記事 : 鍬山神社 晩秋の紅葉

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問題102

百萬遍知恩寺の由来は、1331年(元弘元年)、京都に疫病が蔓延し、( 何天皇? )の勅(天皇の命令)により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜(かし)された。

※ 下賜=身分の高い人からくださること

   

 

<解説>

七日念仏百万遍とは

各種の祈祷を目的として念仏を百万回唱えること。

 

本来は、個人が念仏を7日間(もしくは10日間)のうちに

100万回唱えることで目的が成就されるとされている。

 

投稿記事 : 百萬遍知恩寺 秋の古本まつり

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問題101

建勲神社のはじまりは、明治2年11月8日(1869年12月10日)、日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた( 誰? )を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建が、明治天皇により決定された事が始まりである。

   

 

<解説>

明治3年10月17日

信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)と

織田家旧領地の山形県天童市に

建勲社が造営された。

 

明治8年(1875年)4月24日

別格官幣社に列格した。

 

現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し

豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地である

その船岡山に神社を移すことになり

明治13年(1880年)9月

社殿が竣工して東京より遷座した。

 

なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある

「大平和敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった。

 

明治14年(1881年)に織田信忠が合祀され

明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建された。

 

投稿記事 : 船岡山公園 噂の真相

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問題100

御金神社で一際目立つ金色の鳥居、もともと木製であったが、台風の影響で壊れていまい、今は( 何の素材? )製の鳥居が建っている。

   

 

<解説>

「金」の神様をまつっていることから

金箔を扱うお店のご好意で

鳥居に金箔が施されている

平成18(2006)年4月に完成。

 

投稿記事 : 御金神社で金運アップ

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問題099

千本ゑんま堂の本尊である閻魔法王は( ? )で一度焼失、現在のものは1488年に作られた2代目である。

   

 

<解説>

高さ2.4メートル 幅2.4メートル 木製

現在のお像は長享二年(1488)

仏師定勢(じょうせい)により

刻まれ再現安置されています。

 

投稿記事 : 千本ゑんま堂(引接寺) 地名に潜む真実

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問題098

清水寺の塔頭で、国の名勝に指定されている「月の庭」があるのは何処か?

   

 

<解説>

成就院は

幕末には西郷隆盛らが集い

密談を行った場所と言われている。

 

成就院庭園は池に写る月の美しさから

通称「月の庭」と呼ばれるようになった。

 

投稿記事 : 清水寺 ピンクイルミネーション点灯

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問題097

正式名「木嶋坐天照御魂神社」は、通称「木嶋神社」「蚕ノ社(かいこのやしろ)」と呼ばれている。「蚕ノ社」は本殿の隣に在る摂社「蚕養神社(こかいじんじゃ)」が由来であるが、この「蚕ノ社」の名がついた公共機関は何か?

   

 

<解説>

蚕ノ社駅は

京福電気鉄道(けいふくでんきてつどう)

通称「嵐電」の駅の1つである。

 

投稿記事 : 木嶋神社 三柱鳥居

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問題096

常林寺を宿坊に使っていた、幕末の人物は誰か?

   

 

<解説>

勝海舟は

1860年咸臨(かんりん)丸を指揮して太平洋を横断

1864年海軍奉行となり

西郷隆盛と会見して江戸城明け渡しに尽力した。

 

投稿記事 : 「秋の七草」を求め 2015(4) 常林寺

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問題095

阪急桂駅は、1928年(昭和3年)11月1日に開業したが、この年の10月12日、京都平安神宮に日本最大の( ? )が完成した。

   

 

<解説>

平安神宮大鳥居は

平安神宮の応天門から約300メートル南の神宮道に所在する

高さ24m、幅18mの大鳥居である。

 

昭和3年に昭和天皇御大礼の記念事業として

大鳥居建設計画を開始

工事顧問には京都帝国大学教授武田五一

設計および工事監督は京都府技師阪谷良之進が就任

鳥居建設費は3万100円。

 

投稿記事 : 阪急そば 桂店 フライドポテトがトッピングの「ポテそば」

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問題094

辰巳神社の名前は、( どこ? )から見て、南東(辰巳の方角)の方角を守るという目的で建てられた事が由来である。

   

 

<解説>

辰巳の方角を守る目的で建てられた

辰巳神社であったが

今では祇園の芸舞妓さんからの信仰を集める

伎芸上達にご利益のある小社となっている。

 

投稿記事 : 祇園 辰巳神社 雨開けのサルスベリ

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問題093

大将軍八神社は、( 何天皇? )が延暦13 (794) 年、平安遷都に際して悪霊から都を守るために四方に大将軍を配置し、大将軍八神社はその一つである。

   

 

<解説>

大将軍八神社は

風水の天門の地である

内裏(だいり)の北西角に

都の方除け守護の神として造営された。

 

※ 内裏とは、天皇の住む御殿、御所

 

投稿記事 : 大将軍八神社 モノノケ市

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問題092

寿延寺は,下京区の( どこ? )に建てられたものを、1655年に現行のこの場所に移築された。

 

 

<解説>

1616年

日柔上人によって創建された寿延寺は

山号を興福山という

日蓮宗の寺である。

 

投稿記事 : 寿延寺の洗い地蔵

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問題091

首途八幡宮(かどで はちまんぐう)は、( 誰? )の奥州(東北地方)出発の地であり旅行安全の神社として崇敬を集めている。

   

 

<解説>

かつて、この地には奥州で産出される金を

京で商うことを生業としていた

金売吉次(かねうり きちじ)の屋敷があったと伝えられ

承安4年(1174年)3月3日、源義経は奥州平泉に赴く際に

吉次の助けを得て、鞍馬山から首途八幡宮におもむき

道中の安全を祈願して出発したといわれている。

 

「首途」(かどで)とは「出発」を意味し

この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった

このことから

特に旅立ち、旅行安全の神として信仰を集めている。

 

投稿記事 : 首途八幡宮 雨の百日紅

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問題090

だるま寺の本堂には、日本映画創業以来の関係者四百余霊がまつられる( 何寺? )がある。

   

 

<解説>

映画関係者と親交のあった先代住職との関係で

京都と縁が深い映画スターの位牌が

多く祀られている。

 

投稿記事 : だるま寺(法輪寺) 芙蓉と達磨様

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問題089

本隆寺は、江戸時代初期の医者であり、歴史家でもある( 誰? )のお墓がある事で知られる法華宗真門流の総本山である。

   

 

<解説>

本隆寺は

日真(にちしん)が建てた寺であり

正式名所を本妙興隆寺という。

 

京都を火の海にした大火

「西陣焼(にしじんやけ)」「天明の大火(てんめいのたいか)」でも

焼けなかった事から

不焼寺(やけずのてら)とも呼ばれてる。

 

投稿記事 : 本隆寺 紅白のサルスベリ

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問題088

平安初期の僧「空海」は、日本真言宗の開祖。入唐(にっとう)し、密教を究めて帰国。京都の( 何寺? )に入住した。

※ 入唐とは、日本から僧や使節などが唐に行くこと

   

 

<解説>

高雄山寺は現在の神護寺、

その後、東寺を真言道場とし

庶民教育施設の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立

毎月21日(命日)の東寺の縁日は

「弘法さん」と親しまれている。

 

投稿記事 : 高野山 奥の院 弘法大使の御廟

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問題087

愛知県には記事中の店名と同じ「春日井市(かすがいし)」が在り、ここの出身である小野道風(おの の みちかぜ)は、平安時代に活躍した書道家である。この小野道風を祀っている京都市北区にある神社は何?

   

 

<解説>

小野道風は

平安時代前期に活動した能書家

それまでの中国的な書風から脱皮して

和様書道の基礎を築いた人物と評されている。

 

後に、藤原佐理と藤原行成と合わせ

「三跡(さんせき)」と称されている。

 

※ 三跡とは、書道の大御所三人のこと。

 

投稿記事 : 麺がなくなり次第終了する 手打ちうどんのお店「春日井」のカレーうどん

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問題086

狸谷山不動院の名前は、ご本尊の「咤怒鬼不動明王(たぬきふどうみょうおう)」に由来するが、この「咤怒鬼不動明王」を祀る事は( 何天皇? )の勅願(ちょくがん)であった。

※ 勅願とは、天皇の祈願

   

 

<解説>

平安時代初期、桓武天皇の勅願により

平安京の鬼門を守る為

その方角(北東)に「咤怒鬼不動明王」を祀った事が

狸谷山不動院の起源となっている。

 

ちなみに「咤怒鬼」とは

「鬼門から入り込む邪気を叱りつける」

といった意味である。

 

投稿記事 : 狸谷山不動院 火渡り祭

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問題085

建仁寺の塔頭である両足院(りょうそくいん)は、( 誰の? )の守護神「毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)」が祀られている。

   

 

<解説>

建仁寺の境内塔頭の1つの両足院には

軍師、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の息子

黒田長政の守護神「毘沙門天像」が

安置されている。

 

投稿記事 : 建仁寺塔頭 両足院での坐禅とヨガ体験

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問題084

三室戸寺には、( 何物語? )の「浮舟之古蹟(うきふねのこせき)」の碑が立っている。

   

 

<解説>

三室戸寺の創建は770年

光仁天皇の勅願によって建てられた。

 

境内の中に「浮舟之古蹟」と刻まれた石碑がある

宇治にかくまわれていた浮舟(女性)が

情熱的で衝動的な愛に惹かれ

波に翻弄される小舟のように漂う自分の心を

「橘の小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ」

と詠んだ歌にちなみ「浮舟」の巻の名が生まれた。

 

投稿記事 : 三室戸寺 ハス酒を楽しむ会

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問題083

桔梗の寺と呼ばれる天得院は、( 何寺? )の25ある塔頭の1つである。

   

 

<解説>

天得院は、東福寺第30世住持の

無夢一清(むむいっせい)禅師によって創建された

臨済宗東福寺派のお寺である。

 

投稿記事 : 天得院 華頭窓からの桔梗

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問題082

白峯神宮に植栽されている小賀玉の木(オガタマノキ)は、日本国通貨の( 何円硬貨? )に描かれている絵のモデルになっている。

   

 

<解説>

樹高約13mで樹齢800年と言われており

京都では最大で

京都市指定天然記念物に指定されている

今も旺盛に春には白い芳香のある花を咲かせ

秋にはピンクの実を落として

鳥たちや多くの生物を育んでいる。

 

投稿記事 : 白峯神宮の茅の輪

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問題081

下鴨神社の第一摂社である河合神社の禰宜(ねぎ・神職の一つ)の家に生まれて、三大随筆のひとつ「方丈記(ほうじょうき)」を著したのは誰か。

   

 

<解説>

神官の家系に生まれた鴨長明は

禰宜であった父親が他界したことが原因で

親族との争いに巻き込まれます

これが元で目指していた禰宜になる事が出来ず

出家する事になります

そんな彼が死ぬ間際に書いた作品が「方丈記」である。

 

投稿記事 : 河合神社 鏡絵馬で美人祈願

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問題080

西国三十三所霊場といえば( 何霊場? )めぐりであるが、三室戸寺は第10番礼所の巡礼地である。

   

 

<解説>

近畿と岐阜に点在する

西国三十三所霊場は

観音霊場33箇所の事である

日本で最も歴史があると言われている巡礼。

 

投稿記事 : 三室戸寺 50種1万株のあじさい

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問題079

妙心寺の塔頭「慈雲院」は当初慈雲庵と称し、妙心寺の( どこに? )にあったが、明治11年(1878)に妙心寺山内に移った。

   

 

<解説>

慈雲院は

大坂の橘屋新兵衛(たちばなやしんべえ)が

湛月紹円(たんげつしょうえん/大虚霊光禅師)を開祖に

承応2年(1653)創建した。

 

文禄年間(1592~96)に

妙心寺山内にある

池田輝政が創建した盛岳院の跡地に移った。

 

投稿記事 : 慈雲院 満開のさつき

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問題078

亀岡市に在る、神蔵寺の本堂前にある賽銭箱は、明智光秀とゆかりがあるもので、( 何の大賽銭箱? )と呼ばれている。

   

 

<解説>

1582年に明智光秀が本能寺へ攻め込むために

馬を返した場所(亀岡市曽我部町)に桜の幼木があった

平成二年に大木となったその桜が伐採されることになったが

その年は伝教大師が神蔵寺を開かれて

千二百年目にあたるため

有志縁者によってその桜の木材を使い

賽銭箱として奉納されたのが

「結縁の大賽銭箱」である。

 

投稿記事 : 神蔵寺 大楓の新緑

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問題077

祇王寺は、( 誰の? )の寵愛を失った白拍子(しらびょうし:白拍子という歌舞の演者)に由来し、往生院(おうじょういん)の跡に建立された。

   

 

<解説>

往生院跡に建つ祇王寺は

法然上人の弟子「良鎮(りょうちん)」が創建した

平清盛の寵愛を受けていた

祇王という白拍子の女性が

寺院の名前の由来となった。

 

投稿記事 : 祇王寺の新緑

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問題076

京都・大原の寂光院(じゃっこういん)、創立者は誰か?

   

 

<解説>

寂光院は594年

聖徳太子の父である

「用明天皇(ようめいてんのう)」の菩提を弔うため

建てられたお寺と言われている。

 

投稿記事 : 味噌づくりを100年以上「味噌庵」の白みそアイス

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問題075

平安末期に平清盛が、( ? )と称した別邸を建て、紀州熊野の若一王子の御霊を祭ったのが若一神社の始まりである。

   

 

<解説>

清盛の勢威が伸びたという事で

若一神社は開運出世の神として

崇められている。

 

11月10日例祭、火焚神事がある。

 

投稿記事 : 若一神社 楠の祟り

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問題074

( 何離宮? )の鎮守社として崇められた城南宮は、古くから方除け(かたよけ)の信仰を集めている。

※ 方除けは、凶方位に向かって何か物事をなすとき、凶の作用を防ぐためのお祓いもしくはお札のこと。

   

 

<解説>

鳥羽離宮は

1086年に白河天皇が造園をはじめ

退位後、上皇として院政を行った場所。

 

投稿記事 : 城南宮 菊水若水

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問題073

キリシマツツジの名所である長岡天満宮は、祭神の( 誰? )が大宰府に左遷される時に立ち寄った場所と伝えられている。

   

 

<解説>

長岡天満宮は

菅原道真の所領だった場所で

在原業平(ありわらのなりひら)らと和歌を詠み

楽しんだと言われている。

 

投稿記事 : 長岡天満宮 キリシマツツジ

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問題072

善峯寺の境内にある国指定天然記念物で樹齢600年の松の名前は何か

   

 

<解説>

多宝塔の前にあり「日本一の松」と呼ばれている。

「遊龍」の名称は安政4年(1857年)

花山院前右大臣家厚公により付けられたもので

「新日本名木100選」にも選ばれている。

 

投稿記事 : 善峯寺 桂昌院お手植えの桜

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問題071

大原野神社は、応仁の乱の後( 誰? )が荒廃した社殿を再建した。

   

 

<解説>

大原野神社は

延暦3年(784年)の長岡京への遷都にあたり

桓武天皇皇后の藤原乙牟漏が

藤原氏の氏神である奈良の春日大社の分霊を

大原野に移し祀ったのが始まりである。

 

投稿記事 : 大原野神社 千眼桜

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問題070

日向大神宮は、神明造の社殿で内宮と外宮で分かれ、古くは( 何? )神明宮と呼ばれた神社である。

   

 

<解説>

日向大神宮は、京のお伊勢さんと呼ばれ

天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っている神社である

京の七口の1つ「粟田口(あわたぐち)」にある事から

粟田口神明宮と呼ばれていた。

 

投稿記事 : 日向大神宮の桜とツツジ

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問題069

法然院で飲む事の出来る京の名水は何?

   

 

<解説>

善気水は法然院の背後にある

こんもりした山から流れ出てくる沸き水である。

 

投稿記事 : 法然院墓地の紅しだれ桜

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問題068

祇園白川にある辰巳神社は、( どこ? )より辰巳の方向(南東)にあることからそう呼ばれた。

   

 

<解説>

もともとは京都御所の

辰巳の方角を守る神社であったが

祇園の人々の信仰が厚く

特に芸舞妓さんが

芸事の上達を祈るようになっていった。

 

投稿記事 : 京都リサーチパークのシダレザクラ

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問題067

京都市下京区のリサーチパークの場所は、1928年に建設された京都瓦斯の工場跡であるが、その1928年10月12日、( どこの神社? )に日本最大の鳥居が完成した。

   

 

<解説>

平安神宮は

平安遷都1100年祭(1895年・明治28)に

桓武、孝明両天皇を祀る神社として創祀された

平安京大内裏の正庁を模した

応天門、大極殿など朱塗りの建築が有名である。

 

投稿記事 : 京都リサーチパークのシダレザクラ

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問題066

花の名所として知られている平野神社の神紋に使われている花は何か?

   

 

<解説>

花山天皇(かざんてんのう・第65代)により

数千本の桜が境内に植えられた事が

桜の名所として平野神社を有名にした。

 

投稿記事 : 平野神社 御神水

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問題065

聖徳太子から仏像を与えられ、広隆寺(こうりゅうじ)を建立したと伝えられるのは誰か?

   

 

<解説>

聖徳太子の側近である秦河勝は

渡来系民族である秦氏の1人

広隆寺は秦氏の氏寺で

国宝第一号とされている。

 

弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかしいぞう)が安置され

京都で一番古い寺(603年に創建)と言われている。

 

投稿記事 : 広隆寺の早咲き桜

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問題064

有栖川宮旧邸の枝垂桜は、昭和27(1952)年に( どこの寺? )の桜を移植したものである。

   

 

<解説>

この枝垂桜は

秀吉が醍醐の花見を催した当時の桜の

孫に当たるといわれている。

 

投稿記事 : 有栖川宮旧邸 桜のトンネル

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問題063

法住寺には有名な漫画家の遺骨が安置されている。さて、それは誰?

   

 

<解説>

生前の長谷川町子先生が法住寺に訪れ

先代住職とお話された縁で

遺骨が安置されているという事である。

 

投稿記事 : 法住寺 源平咲の梅

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問題062

祐正寺の場所は、安土桃山時代に( 誰? )が建てた「政庁」「邸宅」「城郭」の聚楽第(じゅらくだい)があった場所である。

   

 

<解説>

祐正寺のある長門町は

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣である

木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)の

武家屋敷が置かれた場所であったため

その名残が町名に残っている。

 

投稿記事 : 祐正寺のしだれ梅とスイセン

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問題061

雲龍院の創建は1372年、( 何天皇? )の勅願によって建てられた。

   

 

<解説>

北朝の4代天皇の後光厳天皇は

「三種の神器」や上皇からの指名もないまま

即位された天皇として有名

当時は天皇家(皇室)が2つに分かれていた

南北朝時代である。

 

投稿記事 : 雲龍院 悟りの窓からの紅梅

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問題060

記事中のお店「原了郭」は1703年(元禄16年)創業、この年の1月30日(元禄15年12月14日)元禄赤穂事件が発生。京都にある赤穂浪士を祀る神社は何?

   

 

<解説>

大石神社は

元禄赤穂事件において討ち入りをした

赤穂浪士を祀る神社

1868年、明治天皇が

赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わし

これを弔って以降

赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建された。

 

投稿記事 : 黒七味の老舗 原了郭

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問題059

栂尾(とがのお)、高雄(たかお)と共に三尾として知られる槇尾(まきのお)にあり、清凉寺式の本尊釈迦如来立像がある寺院はどこか。

   

 

<解説>

西明寺は

智泉法師(弘法大師の弟子)により

神護寺の別院として創建された。

 

清凉寺式釈迦如来像とは

清凉寺の本尊を模したもので

インド風の姿が特徴的となっている。

 

投稿記事 : 嵯峨の釈迦堂 雨の梅

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問題058

蹴鞠の守護神である3匹の猿が祭られているのは、大津の平野神社と京都市の( 何神社? )である。

   

 

<解説>

平安後期の藤原成通は

蹴鞠の名人と言われている

成通は蹴鞠の上達のために毎日練習し

千日目の練習を終えた夜

夢に3匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れる

その猿の名前が

夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ)であり

鞠を蹴る際の掛声になった。

 

投稿記事 : 上賀茂神社 紀元祭 蹴鞠(けまり)奉納

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問題057

三千院境内にある往生極楽院に安置されている仏像の中で、大和坐りをしているのは大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)ともう一体は何?

   

 

<解説>

往生極楽院は

平安時代に活躍した僧の源信(げんしん)が

姉の安養尼(あんように)と父母を

弔う為に建立した。

 

大和坐りは

正座の状態からやや腰を浮かした坐り方

立ち上がろうとする瞬間の姿を現している。

 

投稿記事 : 三千院 初午大根焚き法要

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問題056

狸谷山不動院の境内にある小さな滝は、有名な剣豪が修行をした事で有名です。その滝の名は何?

   

 

<解説>

慶長9年(1605)

武蔵が吉岡清十郎一門を迎えて

「下り松」で決闘に臨むに当たり

この滝で修行を行い

不動尊の右手に持する降魔の利剣の極意を感得した

憎悪ではなく、己の恐怖、煩悩に打ち克った事を悟った。

 

投稿記事 : 狸谷山不動院 初不動(癌封じの笹酒)

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問題055

天龍寺は、( 何天皇? )の冥福を祈るために足利尊氏が開創した寺院である。

   

 

<解説>

足利尊氏は

後醍醐天皇に反旗をひるがえした人物である

後醍醐天皇の崩御に際して

その菩提を弔う寺院の建立を勧めたのは

武家からも尊崇を受けていた

禅僧・夢窓疎石であった。

 

投稿記事 : 銀世界の天龍寺

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問題054

金閣寺や銀閣寺を山外塔頭とするお寺はどこか。

   

 

<解説>

相国寺は

足利義満(あしかがよしみつ)により

建てられた寺である。

花の御所の隣接地に

一大禅宗伽藍を建立することを発願し

明徳3年(1392年)に竣工した。

 

投稿記事 : 雪化粧の金閣寺

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問題053

「宝寺の隣に住んで桜哉(たからじのとなりにすんでさくらかな)」の句を詠んだのは誰?

   

 

<解説>

大正4年(1915年)に

夏目漱石が宝積寺の隣地に

加賀正太郎が建設中であった山荘を訪れ

上記の句を詠んだ。

 

投稿記事 : 宝積寺の三重塔

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問題052

東大寺は、聖武天皇が国力を尽くして建立した寺であるが、その聖武天皇の勅願(天皇の祈願)により行基(奈良時代の僧)が建立したと伝えられる京都の寺は?

   

 

<解説>

宝積寺は

聖武天皇が夢で竜神から授けられた

「打出」と「小槌」を祀ることから

「宝寺」(たからでら)の別名もあり

大黒天宝寺とも呼ばれている。

 

投稿記事 : 東大寺の大仏様

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問題051

平安神宮は、明治28年(1895)平安遷都1100年記念祭の際、平安遷都を行った( 何天皇? )を祀る神社として創建した。

   

 

<解説>

社殿は平安京の朝堂院を模し

約八分の五の規模に縮小

二層の神門は応天門、拝殿は

大極殿を模し建立

昭和15年(1940)

平安京で過ごした最後の天皇

孝明天皇が祭神に加えらた。

 

投稿記事 : 平安神宮 紅葉の神苑

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問題050

十輪寺の本堂の屋根は珍しい( 何型? )であり、文化財に指定されている。

   

 

<解説>

応仁の乱で本堂は一度消失し

現在のものは寛延3(1750)年に

再建された。

鳳輦(ほうれん)型の屋根の本堂は

お神輿のような形をしており

非常に珍しいものである。

 

投稿記事 : 十輪寺 小塩の紅葉

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問題049

柳谷観音は、( 何寺? )の開祖延鎮(えんちん)が806年に開山し、延鎮が夢告により十一面千手千眼観世音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。

   

 

<解説>

延鎮が清水寺に帰った後

空海が度々こちらで修行を行った

その際に猿が病気の目を

ここの湧き水で洗っていたのを見て

眼病に効く独鈷水として

空海が広めたとされる。

 

投稿記事 : 暮れの秋 柳谷観音

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問題048

梅宮大社は、子宝に恵まれるといわれる( 何石? )がある神社である。

   

 

<解説>

壇林皇后(だんりんこうごう)が皇子に恵まれず

梅宮大社に参拝し

またげ石を跨いで祈願したところ

子(のちの仁明天皇)を授かった。

 

投稿記事 : 梅宮大社で猫とあそぶ

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問題047

記事内容から、チャーシューといえば豚ですが、新選組も豚を食べており( 何寺? )駐屯所に神戸から持ち込んだ子豚を養豚していた。

   

 

<解説>

豚を解体する際は

木屋町の医者、南部精一の弟子に頼んでいた。

 

投稿記事 : 旨みのあるアッサリ醤油味 ラーメン大輝

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問題046

桜の散る頃に疫病が流行したため、花の霊を鎮め無病息災を祈願したことに始まる今宮神社の祭は何か?

   

 

<解説>

やすらい祭は

桜や椿などで飾られた花傘を中心に

赤毛・黒毛の鬼たちがお囃子に合わせて踊り歩き

疫病を鎮め健康を願う春のさきがけの祭である。

 

投稿記事 : 今宮神社の阿呆賢さん

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問題045

記事中のお店の屋号である「藤」から1問、京都で藤の花といえば平等院を思い浮かべますが、この平等院は藤の花を家紋とする( 何氏? )ゆかりの寺院である。

   

 

<解説>

平等院の藤は樹齢約250年で

平等院のシンボルになっている。

また平等院の藤の花は

1メートルを超えるものもある。

 

投稿記事 : ラーメン藤 本店 九条ネギたっぷり醤油ラーメン

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問題044

1948年創業の記事中のお店「志津屋」、それより500年前の1448年に生まれた室町時代の連歌師( だれ? )は大徳寺の一休宗純(説話のモデル)の禅の道に入って修行し、宗純没後も大徳寺の山門造営に関与した。

   

 

<解説>

宗長(そうちょう)は

駿河国島田(現在の静岡県島田市)の出身

「急がば回れ」を唱えた人として有名

一休宗純没後は

山城国薪村(現在の京都府京田辺市)で宗純の

菩提を弔った

その後、大徳寺の山門造営にも関与した。

 

投稿記事 : 志津屋祇園店 京都太鼓あんぱん

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問題043

1947年に開業した記事中のお店、同じ年の5月に( どこ? )で火災、国宝などを焼失した。

   

 

<解説>

当時国宝に指定されていた

宸殿の障壁画のうち16面が焼失

焼けた講堂再建に先だって発掘調査が実施

結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され

日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことが

裏付けられた。

 

投稿記事 : 洋菓子店オオマエのアップルケーキ

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問題042

記事中のお店の近くには屋号と同じ大黒寺(だいこくじ)がある。この大黒寺、通称は何と呼ばれている?

   

 

<解説>

元々は「長福寺」であったが

1615年

薩摩藩主島津義弘の守り本尊である

「出生大黒天」にちなみ

薩摩藩の祈祷所として大黒天を本尊にし

寺名を変更した。

 

投稿記事 : ワンコインで食べれるラーメン 伏見桃山 大黒ラーメン

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問題041

醍醐寺の五重塔は( 何の乱? )で、醍醐寺建造物で唯一、奇跡的に残った。

   

 

<解説>

醍醐寺の五重塔は

高さ38.16m

相隣の長さが全高の1/3にあたる13m。

 

当時の伝統的な仏教寺院の

意匠を凝らした連子窓

漆喰の白壁と丹塗りの柱のコントラスト

幾何学模様を生み出す力強い垂木から

日本三名塔のひとつになっている。

 

投稿記事 : 醍醐寺 五重塔

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問題040

清水寺の清水の舞台を出て直ぐ左手にある神社で、全国でもっとも古いと言われている神社は?

   

 

<解説>

日本の建国以前に創建されたと言われ

境内の「恋占いの石」は

縄文時代の遺物と伝えられている。

 

投稿記事 : 清水寺 桜 ライトアップ

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問題039

記事中のお店近くにある辰巳大明神(たつみだいみょうじん)、もともとは辰巳の方角を守る神社であったが、今では( どんな職業? )の伎芸上達にご利益のある小社となっている。

   

 

<解説>

春には神社を覆うように

桜が咲き乱れ

多くの人が見物に来られる

特に夜のライトアップされた桜は必見。

 

正面で拝み

ほこらの裏も廻り一周すれば

よりご利益があるとの事。

 

投稿記事 : ウィルズキッチン 祇園店限定パンケーキ

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問題038

勝運の神様である藤森神社には( ? )の関係者の参拝が多い事で知られている。

   

 

<解説>

藤森神社は

駈馬神事(かけうましんじ)が行われろ事で

馬の神として信仰されている。

また「菖蒲の節句発祥の地」でもあり

「菖蒲(しょうぶ)」は「勝負」と置き換えられ

競馬関係者が多く参拝する。

 

投稿記事 : 馬づくし 藤森神社

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問題037

下鴨神社は、平安時代から伊勢神宮と同様に、一定年限で本殿を造替する式年遷宮が行われてきたが、現在の本殿は、いつの造替時のものか。

   

 

<解説>

下鴨神社では

式年遷宮が21年ごとに行われている

本来の式年遷宮は

ご神体を除くすべての建物を

新しくすることを指すが

下鴨神社はその社殿のほとんどが

国宝や重要文化財のため

すべてを新しくすることはできず

屋根や建具・金具の補修、漆喰壁の塗り替えなど

大修理を行って傷んだところを直し

祭儀を行うこととしている。

 

投稿記事 : 下鴨神社 神水御手洗

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問題036

頂法寺(ちょうほうじ)は、本堂が六角形であることから、「六角堂」の通称で知られており、華道( ? )の発祥の地でもある。

   

 

<解説>

池坊(いけのぼう)は

頂法寺の本堂である六角堂の執行として

代々経営・管理に当たってきた

池坊の坊名は

聖徳太子が沐浴したという池にちなんで

名付けられた。

 

投稿記事 : 京都の「おへそ」 六角堂

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問題035

平野神社は、延暦13年(794年)、桓武天皇(かんむてんのう)による( 何遷都? )にともない、平城京で祀られていた神、今木神(いまきのかみ)・久度神(くどがみ)・古開神(ふるあきのかみ)を遷座(せんざ)・勧請(かんじょう)したのに始まる。

※遷座:神体を遷すこと
※勧請:神仏の分霊を他の場所に移しまつること

   

 

<解説>

元々今木神は平城京の田村後宮(たむらこうきゅう)に

久度神・古開神は

大和国平群郡(やまとのくにへぐりぐん)の

式内(しきない)・久度神社に祀られていた。

 

投稿記事 : イチョウの黄葉 平野神社

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問題034

北野天満宮において( ? )は神使(祭神の使者)とされている。

   

 

<解説>

牛が神使とされている理由は

主祭神の菅原道真の

「出生年は丑年である」

「亡くなったのが丑の月の丑の日である」

「道真は牛に乗り大宰府へ下った」

「牛が刺客から道真を守った」

「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」

 

投稿記事 : 北野天満宮へ神頼み

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問題033

正法寺は、754年( どこ? )から日本へ来た智威大徳(ちいだいとく)が修行した坊(宿泊所)に始まるとされる。

   

 

<解説>

延暦年間(782年~806年)

最澄(さいちょう:日本の天台宗の開祖)が

この地に寺を建立。

弘仁年間(810年~824年)空海が入寺した。

 

投稿記事 : 洛西の紅葉 正法寺

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問題032

西行が勝持寺で出家した際に1株の( 何の花? )を植え、吟愛したことから「花の寺」と呼ばれるようになった。

   

 

<解説>

勝持寺が「花の寺」として有名なのは

230首もの桜の歌を詠い

各地を巡った西行法師が山家し

隠棲した場所と伝えられているからである。

 

投稿記事 : 花の寺の紅葉 勝持寺

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問題031

大原野神社は、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、后(きさき)の藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)が藤原氏の氏神である奈良の( 何神社? )の分霊を勧請(かんじょう)して、鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。

   

 

<解説>

嘉祥3年(850年)

藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)を祖父に持つ

文徳天皇(もんとくてんのう)が社殿を造営し

奈良春日大社と同じ藤原氏の氏神を祀る

大原野神社はそれに準ずる扱いを受け

二十二社(朝廷より特別の処遇を受けた神社)に列した。

 

投稿記事 : 京春日 大原野神社

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問題030

光明寺(こうみょうじ)は、西山浄土宗の総本山で( だれ? )が初めて念仏(南無阿弥陀仏)の教えを説いた地である。

   

 

<解説>

念仏(ねんぶつ)とは

一般的には、浄土教系の仏教教団において

合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。

 

投稿記事 : 2013 光明寺 紅葉の特別入山

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問題029

一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られているが、正式名は禅林寺(ぜんりんじ)。京都に3箇所あった( ? )の一つでもある。

   

 

<解説>

勧学院は弘仁12年(821年)

藤原冬嗣によって創建され

貞観14年(872年)以前に

大学別曹(だいがくべっそう)として公認された。

 

大学別曹は有力氏族の学生のためにつくられた

寄宿舎である。

 

投稿記事 : 永観堂 紅葉ライトアップ

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問題028

安楽寺は、7月に中風除けを祈願する( ? )供養で有名である。

   

 

<解説>

安楽寺は、1207年(建永2)におこった

建永の法難(けんえいのほうなん)のきっかけとなった法然の

念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身の寺であり

寺宝として安楽房遵西(じゅんさい)・住蓮坊(じゅうれん)と

後鳥羽上皇の女官であった

松虫・鈴虫関連のものが残されている。

 

※ 建永の法難は、法然ひきいる教団が弾圧された事件

 

投稿記事 : 安楽寺 秋の特別公開

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問題027

法然院の起こりは、( 何時代? )に法然が弟子たちと共に六時礼讃行(ろくじらいさん:1日を6つに分け、読経・念仏・礼拝を行う)を身につける草庵(質素な佇まい)に由来するという。

   

 

<解説>

延宝8年(1680年)に

知恩院の第38世である萬無(ばんぶ)が

法然ゆかりの地に念仏道場を

門弟の忍澂(にんちょう)と共に再興したとされる。

 

投稿記事 : 法然院 澄み切った空気と紅葉

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問題026

圓德院は、豊臣秀吉の正室( だれ? )が晩年の19年間を自身の本拠とする場所にしたと伝えられている。

   

 

<解説>

圓德院の三面大黒天は

秀吉の念持仏と伝わっている。

また北庭は、旧円徳院庭園として国の名勝に

指定長谷川等伯の筆による襖32面の墨画は

旧三玄院襖絵(山水図襖)(きゅう さんげんいん ふすまえ)として

国の重要文化財に指定。

 

投稿記事 : 紅葉ライトアップ 圓徳院

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問題025

明恵(みょうえ)は建永元年(1206年)、( 何天皇? )から栂尾の地と「日出先照高山之寺」の額を与えられた。この時が高山寺の創立とされている。

   

 

<解説>

経典の「華厳経」(けごんぎょう)にて

「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは

「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは

高い山の頂上である」という意味で

そのように光り輝く寺院であれとの意味が

高山寺の名前に込められている。

 

投稿記事 : 栂尾山 高山寺 国宝・石水院

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問題024

槙尾山 西明寺は、天長年間(824年~834年)に空海の高弟( だれ? )が神護寺の別院として創建したとされる。

   

 

<解説>

永禄年間(1558 – 1570年)に堂塔は焼失し

神護寺に合併されるが

慶長7年(1602年)に

明忍律師(みょうにんりっし)により再興された。

 

投稿記事 : 槙尾山 西明寺 鐘楼を囲む紅葉

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問題023

常寂光寺の名前は、天台宗で説く四土の一つ、「仏の悟りである真理そのものが具現している世界である( ? )のような風情」から名が付けられた。

   

 

<解説>

平安時代に

藤原定家の山荘「時雨亭(しぐれてい)」があった場所で

安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に

日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎(にっしん)が

俗世間を逃れて静かに住む地として当山を開いた。

 

投稿記事 : 黄葉の常寂光寺

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問題022

二尊院は、嵯峨天皇の勅(ちょく:皇帝、天皇の命令)により( だれ? )が建立した。

   

 

<解説>

室町時代になると応仁の乱にて

堂塔伽藍が全焼した。

約30年後(永正18年(1521年))に本堂と唐門を

三条西実隆(さんじょうにし さねたか)が再建した。

 

投稿記事 : 秋晴るる 二尊院

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問題021

清凉寺は、「源氏物語」の中で登場し、光源氏(ひかるげんじ)のモデルといわれている( だれ? )の別荘地に創設された。

   

 

<解説>

広い境内全てが紅葉の名所で

多宝塔横の楓や

本堂裏庭の弁天堂周辺の楓が美しく色づく。

回廊越しの紅葉も赴きがあり

燃え上がるような景色を楽しむことができる。

 

投稿記事 : 清凉寺 色付き始めた紅葉

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問題020

宝泉院の庭園には、建物内の格子ごしに鑑賞する「鶴亀庭園」や、立ち去りがたいという意味のある( ? )がある。

   

 

<解説>

盤桓園には

樹齢300年の沙羅双樹の木や

樹齢700年の「五葉の松」など

一見の価値がある。

 

投稿記事 : 秋の夜灯り 大原  宝泉院

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問題019

隠棲の地である大原に在る「三千院(さんぜんいん)」は、青蓮院、妙法院とともに、天台宗の( 何寺院? )の1つに数えられている。

   

 

<解説>

三千院は8世紀

比叡山に建立された円融房(えんにゅうぼう)に起源をもち

のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移された

たび重なる移転の後

1871年(明治4年)に現在地に移った。

 

投稿記事 : 三千院 色付きはじめた紅葉

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問題018

地蔵院は幼少のころ近くに生家があった( だれ? )が修養された寺である。

   

 

<解説>

一休禅師は

後小松天皇の皇子として

地蔵院の近くの民家で

お生まれになったといわれている。

6歳の時、安国寺に移り本格的な修行に入った。

 

投稿記事 : 曇り空の境内 地蔵院

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問題017

常照寺は、本阿弥光悦が( だれ? )より鷹峰を拝領し、光悦村という芸術の郷を築いた。その土地の一部を本阿弥光悦が寄進し、その子・光嵯(こうさ)の発願によって日蓮宗中興の祖とされた寂照院日乾上人を招じて開創された。

   

 

<解説>

建立後

日蓮宗の檀林(仏教寺院における僧侶の養成機関)が

開かれた。

 

近年、紅葉の名所として人気を集めている。

 

投稿記事 : 秋の気配 常照寺

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問題016

江戸時代の芸術家である( だれ? )に元和元年(1615年)に徳川家康が鷹峯の地を与えた。光悦の死後に屋敷は寺となり、光悦寺となる。

   

 

<解説>

「本阿弥行状記」によれば

光悦寺のある鷹峯は昔

「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったが

光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み

芸術の集落となった。

 

投稿記事 : 引き込まれてしまう参道  光悦寺

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問題015

源光庵は1346(貞和2)年、( だれ? )国師の隠居地として創建された。

  

 

<解説>

創建時は臨済宗に属したが後に衰退。

卍山道白(まんざんどうはく)禅師により再興され

1694(元禄7)年曹洞宗に改められた。

 

境内の稚児井戸は

飢饉を救った伝説があり

この井戸の水は、干ばつの際も枯れたことがない。

 

※ 徹翁義亨(1295-1369)は、 鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧。京都建仁寺の鏡堂覚円のもとで出家,宗峰(しゅうほう)妙超の法をつぐ。

 

投稿記事 : 源光庵 「悟りの窓」「迷いの窓」「血天井」

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問題014

左大臣源重信の婦人の別荘が、藤原道長の子( 誰? )に渡り、永承7年(1052)に仏寺に改め、平等院とした。

  

 

<解説>

平等院は、藤原氏ゆかりの寺院で

平安時代後期の建築、仏像、絵画、庭園などが

「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

現在は特定の宗派に属さず

単立の仏教寺院となっている。

 

投稿記事 : 平等院 「龍頭瓦」と「鳳凰」

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問題013

大覚寺(だいかくじ)は、( 何天皇? )の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。

  

 

<解説>

大覚寺は

後宇多法皇(ごうだほうおう)が院政を行うなど

日本政治史に深い関わりをもつ寺院である。

また、嵯峨天皇に始まるという

華道嵯峨御流(かどうさがごりゅう)を

今に伝える寺でもある。

 

投稿記事 : 大覚寺 観月の夕べ (2)

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問題012

大覚寺(だいかくじ)は、平安時代初期に嵯峨天皇の信任を得ていた( 誰? )が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。

  

 

<解説>

嵯峨天皇が崩御してから30数年後

皇女の正子内親王(まさこないしんのう)が

離宮を寺に改めたのが大覚寺である。

 

投稿記事 : 大覚寺 観月の夕べ (1)

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問題011

「首塚大明神」は平安時代に( 誰? )によって征伐された酒呑童子(しゅてんどうじ)の首が埋められた場所として伝えられている。

  

 

<解説>

源頼光と四天王は酒呑童子を討ち果た

その首を持って京の都に凱旋することになった。

都の手前の老ノ坂峠で休んでいた時

鬼の首は不浄なので都に入れるなと

子安地蔵のお告げがあった

四天王の一人

坂田金時はそれを無視して首を持ち上げようとしたが

どのようにしても首が持ち上がらない。

仕方なく、

ここに首を埋めて塚を作ったのが「首塚大明神」

 

投稿記事 : 老ノ坂峠 首塚大明神

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問題010

金蔵寺は718年(養老2年)、( だれ? )の勅によって、隆豊(りょうほう)禅師が開創した。現在の建物は桂昌院の再建。

  

 

<解説>

平安時代には「西の岩倉」といわれ

「京三岩倉」のひとつとして広く崇敬を集めていた。

本堂には本尊の十一面千手観音像を安置してあり

京都洛西観音霊場第2番札所である。

 

投稿記事 : 東福寺 日本最大最古の禅宗式トイレ

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問題009

東福寺の名前は、奈良の東大寺と( ?寺 )の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。

  

 

<解説>

東福寺(とうふくじ)は

臨済宗東福寺派大本山の寺院

山号を慧日山(えにちさん)と号する。

本尊は釈迦如来

開基(創立者)は、九条道家

開山(初代住職)は円爾である。

 

投稿記事 : 東福寺 日本最大最古の禅宗式トイレ

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問題008

勝林寺は、東福寺の塔頭(たっちゅう)寺院のひとつで天文19年(1550)に創建。本山東福寺の鬼門(北東)に建っている事から東福寺の( ? )と呼ばれている。

  

 

<解説>

毘沙門天を本尊とする勝林寺は

室町時代末期の1550年に

東福寺の住職であった

高岳令松(こうがくれいしょう)が

建立した草庵を起源とします。

 

※ 塔頭とは大寺の高僧の死後、弟子が遺徳を慕ってその塔の頭(ほとり)、あるいは同じ敷地内に建てた小院。

 

投稿記事 : 写経・写仏体験 勝林寺

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問題007

錦天満宮は、天正15年(1587年)、( だれ? )の都市計画のため、京都六条にあった寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。

  

 

<解説>

長保5年(1003年)

菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を

源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して

「歓喜寺」が創建

その鎮守社として天満天神を祀って

創建されたのに始まる。

 

投稿記事 : 錦天満宮 壁に刺さった鳥居

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問題006

八百屋仁左衛門の娘で江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母となり、善峯寺(よしみねでら)や乙訓寺(おとくにでら)などを復興したのは誰か

  

 

<解説>

桂昌院の名は「玉」と云い

八百屋の娘だったお玉が将軍家光の側室となり

豪華な輿に乗った事が

「玉の輿」という言葉の由来になった。

 

投稿記事 : ツール・ド・善峯寺

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問題005

南丹市園部町の「るり渓」近くに在る、大山祇神社(おおやまずみじんじゃ:国指定重要文化財)は、( 誰? )の弟、正季が社地を定めたといわれている。

  

 

<解説>

「るり渓」一帯は「大河内(おおかわち)」といい

「大河内」は、兵庫県・大阪府と隣接する地でもある

「大河内」と隣接する集落「法京」「杉ヶ所」の

産土の神として「大山祇神社」は鎮座している。

 

投稿記事 : 熊野三所権現を祀る 大山祇神社

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問題004

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、商売繁盛や( ? )のご利益のある稲荷神社の総本宮である。

  

 

<解説>

伏見稲荷大社は

全国約4万社が在る稲荷神社の総本宮

 

お稲荷さんは農業の神であり

五穀豊穰・商売繁盛・交通安全などの

ご利益がある。

 

投稿記事 : お守りケース

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問題003

貴船神社は、晴れを願うときには白馬を、雨を願うときには黒馬が奉納された。実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、そのことから( ? )の発祥地と言われる。

  

 

<解説>

貴船神社は

古くから祈雨の神として信仰され

水の神様として全国の料理・調理業や

水を取扱う商売の人々から信仰を集めている

 

その一方で縁切りの神

呪咀神としても信仰されており

丑の刻参りでも有名である。

 

投稿記事 : 鞍馬山ハイキング

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問題002

鞍馬寺は、延暦15年(796年)、( 誰? )が毘沙門天と千手観音を安置して創建したとされている。

  

 

<解説>

鞍馬寺は、

京都盆地の北

豊かな自然を残す鞍馬山の南斜面に位置し

牛若丸(源義経)が修行をした地としても有名

また、能の「鞍馬天狗」でも知られている

新西国十九番札所である。

 

投稿記事 : 鞍馬山ハイキング

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問題001

由岐神社は、もともとは御所にお祀りされていたが、天慶元年の大地震や天慶の乱などが起き、( 誰? )の勅で940年(天慶3年)に鞍馬山に遷宮された。

   

 

<解説>

通称は靫明神(ゆきみょうじん)の由岐神社は

鞍馬寺の鎮守社

 

主祭神の大己貴命と少彦名命を

「由岐大明神」と総称し

八所大明神を相殿に祀る。

 

投稿記事 : 鞍馬山ハイキング

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